写真で綴るワタクシの2017年

【1月】

 

お正月にひとりでカメラを下げてふるさと高円寺を歩いてきました。ところが目にするものは空き家ばかり。30年前まで住んでいたアパートもなんと空き家のまま残っていました。

人がいなければ故郷なんてあってもなくてもいい

なんだか白けてしまって電車に乗る前の一枚がこれ。中野駅の線路沿いの道、この景色だけ何故か懐かしいと感じました。

 

【2月】

 

「ココロノメ」と心で唱えると一瞬、時が止まるような錯覚になります。つまらないことやどうでもいいことなどさっさと切り捨てなさいと言われているような。そしてたいがい止まった時間の分だけ取り残されているのだけど、今は別にそれでかまわないと思えるようになってきました。

 

【3月】

 

鳥は人の心がわかるって言う人いますよね。そんなバカなって思うでしょう。でもこれはほんとうなんですよ。急いでいたり、撮る気まんまんで目をギラギラさせていると鳥にはそれがわかるみたいで現れないんです。ヘラヘラと何も考えずに散歩をしているとこのように近くにやってくる。というのはおそらく急いでいたり撮る気まんまんだとそこにいる小鳥に気が付かないのかも。人もチャンスも同じかもしれないね。

人は人を変えることはできないけど自分を変えることはできる。

 

【4月】

 

フジのカメラにはクラシッククロームというフィルムモードがあってこの写真はそれを使って撮影したんですが…。何も撮ってないのに撮れているような不思議な記憶の中の色。春が過ぎていく色。ココロノメと唱えると見える色。子供の頃の色。私はそんなふうに感じます。

 

【5月】

 

この一枚は実は今年いちばん気に入ってる写真です。心の眼が完全に機能して立ち止まって振り向いてそこまで戻って撮ったときに今まであまり感じない手応えがありました。誰もいないのに圧倒的な空間というか生命のパワーというかそんなものがそこにはありました。フェイスブックにアップしたらこんなどこにでもある被写体なのにたくさんのイイネがあっという間に集まりました。わあ伝わった!関わり・共鳴の典型的な姿だと思いました。

 

【6月】

 

最後の2週間は誰もがひとりで、裸足で、遠くにみえる暖かい海までたどり着かなくてはならない。我々はそれを知っている。だからただただ応援するんです。それしかできることがないから。

ススメススメ、暖かい海まで。そしてあなたは鳥になり、住んでいた街を一回りしたあと、両親が待つ家に帰る。その家ではあなたの母親があなたの好物をテーブルに並べて、あなたが帰るのを待っていてくれることでしょう。ススメススメ。暖かい海まで。

今年お別れした何人かの皆さまお疲れ様でした。最後まで正々堂々と生き切る姿をありがとう。

【7月】

 

関わりというのは案外シンプル。例えば花はこんな色で我々の目を引く、目を引くからああキレイねと心がホッとしてそれをこうして誰かに伝える、ついでにこんな駄文も読んでもらったりして関わりは形を時に変えながら共鳴する人やものに広がっていく。花の色は人だけが見ているわけじゃないですよね昆虫や鳥も見ている、美味そうだと思ったり何かの目印にしているかもしれない、つまり関わりはいろんな用途で広がっていく。面白いのは興味がない人はこの色が見えない。つまり関わるのは選ばれた人やものの使命のようなもの。音楽もそうですよね、ジャズもタンゴも好きな人はぞっこん好きだけど興味がない人には雑音。それが当たり前で健全なんですよきっと。

私たちが何かに気づくとき、それはすでに物語のはじまり。花がキレイだねって立ち止まるとき、店で流れるBGMにいい曲だねって振り向くとき、扉がひらく。もしかしたら同じ感性との出会いがあるかもしれない。誰かが私を待っているのかもしれない。

 

【8月】

 

おまえ自分のこと土浦市民だと思ってんだろー。子供に追っかけられてもいじめられてもさー、羽があるのに飛んで逃げていかないのなー偉いじゃん。

ん?それが仕事?はっはっは。それも関わり?そうだな。

 

【9月】

 

美しいですね。と、一体どの口が言ってるのかと自分でも思うんですよ。そういえばヘラヘラするようになってから多くの人に声をかけられるようになりました。ほとんど年寄りだけど。

人と争ったりけなしたりそれはそれで必要なこともあるから関わりが生じているんでしょうし私もちょっと前までそういうネガティブ方面な関わりの中心人物だったのかもしれないけど、虫のいいことに今私はストレス禁止の病気持ちだから、できれば美しいという感性がある人と一緒にヘラヘラと過ごしていたいです。美しい写真をたくさん撮って共感してくれる人とつながっていたいと素直に思って、そのために写真がもっと上手になりたいと。

 

 

【10月】

 

もっと自分本位に。もっと自分勝手に良かれと思え。

2年5年20年、この先がどれだけの時間だとしても

人生は短くほんの一瞬の瞬き。

 

目指せ遺影写真家と宣言させていただいての自信作です。

 

【11月】

 

立ち止まることを覚えたからにはじっくり自分の心と向かい合ってみたいと思います。ヘラヘラ笑いながらもバケツになみなみと悲しみがたまっていたり、それがつまずいた勢いでサブっとあふれてこぼれたり。それもこれも喜びも悲しみもワタクシであることをですね、せっかくだから受け止めてみたいと。なかなか音になって帰ってきてくれませんがワタクシのこの先は長生きする予定に変更されておりますので焦らずじっくり立ち止まり、風の音とか波の音とか小鳥のさえずりなど、ふだん忘れてしまった音からはじめてみるつもりでいます。それは病室を駆け抜けていくちょっと死とかそういうものが含まれた心地よい空間?テンポ?メロディ?それに近いもの?

 

【12月】

 

 

 

なにもかも過ぎてしまうものなので、たいがいのことはどうでもよいことで、それを積み重ねて明日が来てを繰り返すことを幸せというのかな。朝がくるたびにああ今朝がちゃんと来てよかったーという感覚は日に日に薄れていくものの、それでもやっぱりこの忌まわしきひらがな2文字とは一生のおつきあいなので、目の前のことを一歩づつ。言い換えれば無計画だし計画を立てて進めていくことが何一つできなくなってしまっているけれど、まあ仕方ないです、出来ないものはできないし、今となって私は命が惜しいのでこのまま時が過ぎるのを避難しながら待つという感じです。

カメラは私のお守りになりました。悲しいときも苦しいときも不安なときもこいつと一緒にどこかにいけば誤魔化せる、なくてはならないものになってしまいました。

音楽に帰ってくるものは残念ながら今年も作曲としてはなかったんですが、演奏には大きな変化がありました。

小さい音でもし退屈に思われて帰る人がいても

それはそれでいいや、自分は自分なりに心を込めてていねいにいい音で

それは今闘っている人のベッドの端っこに座って寄り添うような演奏をするように

そんな演奏がやっと少しできるようになり

年末のイチロウカルテットでは皆様のご協力もあって確かな手応えをいただきました。

今までリズムのオモテウラとハッタリで楽しませてもし許されればバラードを一曲だけ

みたいな演奏しか怖くてできなかったので

いい年こいて何をいまさらな話ですが、まさに怪我の功名で。

音楽は嘘をつかない正直なものですね。

 

11月ワタクシはver2.2すなわち3年生になりました。ここまでパーフェクトな順調ぶりのまま局所再発がいちばん危険とされる術後2年を突破いたしましてやっと少々後ろを振り返る余裕が出てきました。

みなさまの応援のおかげです、ありがとうございます。

このサイトは近々大改装を行おうと思っています。病気する前のこの仕様はすでに更新すらできないものになってしまっていますので、今のワタクシのものにしていくつもりです。

音楽の世界もほんとに変わりましたし、まだやっていくつもりなので今の変化に少しでも適応しなければ。

できることはいよいよ限られてまいりましたが。

新しい出会いをまた求めて一歩ずつ。

もれなく撮影がついてきまーすっていうセールストークで行くか。

 

さあいよいよ道標なき道をイケるとこまで。

 

なんにしても。

人生はあっという間、一瞬の瞬き。

生き物はただ生きているだけでまずは十分なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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